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きつねの音楽話

老人性古本症候群を患った若者の徘徊ブログ

【タイトルオチ】要するにみんな僕と一緒に楽しく読書しようということがいいたい。

ことば ことば-読書

どうもどうも、最近すっかり生気の感じられないこのブログの管理人、きつねです。

最近ブログの更新頻度がまあ、非常に低いですが、なんですかね、

書くことがあってもうまく記事にできないということが多いですね。

 

僕はもともと、自分の意見を誰かにいうのが苦手なんですが、というか自分の意見を誰かに伝えるということについてあまり意義を感じないのですが、

ブログってそういうことを主とする節があるじゃないですか。(そうでもない?)

だから書こうと思うことが、主観的な面の大きいことだと、こう書こう、ああ書こうと考えているうちに、

うん、うん。やっぱりやめよう

と諦めてしまうんですね。

 

いつもそうなってしまいながら、ある程度自分の価値観やら何やらを発信していかないとブログに広がりがでないのではないか、とも思わなくもない・・・

 

いままで書いた記事には直接僕の意見を述べたものは殆どないと思われます。

あったとしても記事の全体のうち、ごく一部でしかない。

・・・というわけで、図々しくも今回は”僕の”思うところを少し書いてみようというわけです。

 

 

「ものを読む」ということについての雑考

”ものを読む”ことと”考える力”

 ご存知の通り、先月参院選がありました。

僕も一応選挙権があるというので、投票に向けて候補者のことを調べたりなんだりして投票したわけですが、投票が終わってこう考えた。

選挙権こそありはすれ、僕に正しい投票をする能力があるだろうか。

 

投票について”正し”などという形容詞をつかうことに違和感を覚える人もあろうと思われますが、僕のいうのはこういうことです。

選挙では自分の投票する候補者や政党を、そのマニフェストやらなんだらを参考に選ぶわけですが、それが自分自身にとって、あるいは家族友人、あるいは社会にとって有益な判断であろうか?

(自分の選んだことが、結果自分のためにならないということは容易に起こります。)

 

特に選挙など重大な事柄を選ばずとも、自分の考え、判断その他諸々の正誤は常に考えられることです。

日本の現状

さて僕個人のことはとりあえずおいておくことにして、今の日本はどういう状態にあるでしょうか。

ありがたくもこの記事を読んでくださっている方ご自身、そしてその身の周りの人々、(選挙に限らず)正しい、極端にわかりやすくいえば哲人的な判断ができているでしょうか。

 

僕が普段みていることから判断すると、今の日本は危機的状況あるといえます。

例えば、ネット上での書き込みをみると、明らかに言語能力の未発達な人が多くみられます。

ことばが上手く使えないというのは、うまく考えられないということに直結します。

もし上手く考えられない人が、日本の国民の大半を占めているとすれば、今”この”状況の中でこの国はどうなるでしょうか。

民主主義”なるものが、正常に機能するだろうか・・・?

考える力

結局どうも考える力をつけるには、ものを読むしかないようなのです。

もちろん本を読んでいるだけでは、考えに偏りが生まれるかもしれません。

しかしいくらその他人生に関わる諸々の事を全てこなしたとしても、本を読まないで”本当に成熟した正しい心”を作られるとは思えません。

 

これらの判断について、細かな理由をあげていると大変なことになるので、これに関することをいくつか書きます。

読書は一般化したか

識字率が100%に近いことは並々ならぬことかもしれませんが、これは戦前から達成されていたことで、これを基準に日本の現状を図ることはできません。

文字が読めることと”もの”(文)が読めることは全く別のことといえます。

 

前にも書いた通り昭和二年(1927年)に発刊した岩波文庫の巻末には以下の文章があります。

 

  讀 書 子 に 寄 す     岩 波 茂 雄

   ―岩波文庫發刊に際して―

 眞理は萬人によつて求められることを自ら欲し、藝術は萬人によつて愛されることを自ら望む。嘗ては民を愚昧ならしめるために學藝が最も狹き堂宇に閉鎖されたことがあつた。今や知識と美とを特權階級の獨占より奪ひ返すことはつえに進取的なる民衆の切實なる要求である。岩波文庫は此要求に應じそれに勵まされて生れた。それは生命ある不朽の書を少數者の書齋と研究室とより解放して街頭に隈なく立たしめ民衆に伍せしめるであらう。

(中略)

・・・苟も萬人の必讀すべき眞に古典的價値ある書を極めて簡易なる形式に於て逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。この文庫は豫約出版の方法を排したるが故に、讀者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選擇することが出來る。

(中略)

藝術を愛し知識を求むる士の自ら進んで此擧に參加し、希望と忠言の志を諒として其達成のため世の讀書子とのうるはしき共同を期待する。

 昭 和 二 年 七 月

 

何も学問的な、あるいは難しい文章を読むことだけが読書とはいいません。しかしこの「それは生命ある不朽の書を少數者の書齋と研究室とより解放して街頭に隈なく立たしめ民衆に伍せしめるであらう。」という箇所が実際上実現していないのが現実であります。

確かに街頭に隈なく立たしめられ、民衆に伍せしめられてはいますが(街の本屋に並び、安価で手に入れやすい)、 そうせしめられているだけで、「あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供」されてはいません。つまり読まれていない。

 

これは岩波文庫当時、もしくは戦後間もないころから変わっていません。

その具体的なところをいえば、旧帝大生、卒業生を主とする一部の知識層にしか読まれない、という状況があるようです。

これでは「民を愚昧ならしめるために學藝が最も狹き堂宇に閉鎖されたこと」は何も変わっていないのと同じでしょう。

 

岩波文庫を範とした角川文庫の巻末にもこのような発刊に際することばがあります。

 

角川文庫發刊に際して       角 川 源 義

 第二次世界大戰の敗北は、軍事力の敗北であつた以上に、私たちの若い文化力の敗退であつた。私たちの文化が戰爭に對して如何に無力であり、單なるあだ花に過ぎなかつたかを、私たちは身を以て體驗し痛感した。西洋近代文化の攝取にとつて、明治以後八十年の歳月は決して短かすぎたとは言へない。にもかかはらず、近代文化の傳統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して來た。そしてこれは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあつた。

 一九四五年以來、私たちは再び振り出しに戾り、第一步から踏み出すことを餘儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌、未熟、歪曲の中にあつた我が國の文化に秩序と確たる基礎を齎すためには絶好の機會でもある。

(後略)

 

戦争で未曽有の悲惨をみながらも健気に自国の発展を想う気持ちが滲みでるような文で、これは角川源義さんのみならず他多くの人の想いと重なるものでありましょうが、結局、今現状をみるとこれもまた全く失敗したといわざるを得ないわけです。

日本は秩序、成熟、匡正の中にありましょうか。

論理の展開を読み取る力について

色々な人と話しているとまれに比喩表現のわからない人がいます。

このことに関しては精神の障害(例えばアスペルガー症候群等)によってどうしようもないという人もいるようなので、配慮する必要がありますが、これはそのような症状と診断されるべき状態とは異なるものを想定します。

 

比喩表現に関わらず、高等な言語表現の獲得が、その他ことばというものが習得される過程の延長にあることはいうまでもありません。

つまりこれは獲得するべきものであって、場合によっては獲得されないともいえるわけです。

 

僕の言語能力は今最高度に成熟した状態にあるでしょうか。

もちろんまだまだ未熟です。

最高度の成熟なるものがどのようなものかなどということを考えると難しいですが、獲得されていない部分があることは間違いない。

 

母国語の習得が無意識のうちに行われるために、言語能力の発達が恣意的に行われうるということに気が付いていない人は多いと思われますが、

これは”よく完成された文”を読むことによって、漸次成されていくものでしょう。

 

そのような文をよくよく注目してみるとことばというものが、表面的な、あるいは非表面的な、あるいは両面的な、その他無限のあり方をもっていることがわかります。

 

一例に關口在男著獨作文教程から「第四十二課:随意の認容」の一部をあげます。

(ドイツ語は無視してください)

§ 随意の認容とは何か?及び必要なる用語。―前出二課で取扱つた假定の認容の一變種とも見る可き重要なる意味形態は『随意の認容』である。既に前課の Er mag sagen, was er will 等、疑問詞を含む假定認容は、假定認容であると同時に、多少無關心gleichgültig)なることを表はし、假定の内容が随意beliebig )なることを意味している。つまり、『まあmeinetwegen何でもwas immer ; gleichviel was ; einerlei was)云へ』の意である。すると彼は『何か』(irgend etwas)云ふであらう。『どこかで』(irgendwo)『何時か』(irgendwann)『誰かに』(von irgendwem)『何かの機會に』(bei irgendwelcher Gelegenheit)聞いたことのある『何か出鱈目』(irgendeine Ungereimtheit)を云ふであらう。『誰彼』(der und der ; dieser und jener)から、『これこれの事を』(das und das)聞いた『など」(etwas)と、『その他色々な事』(und so witer ; und dergleichen mehr)を云ふにきまつてゐる。彼は結局『手當り放題の云ひのがれ』(die erste beste Ausrede ; die erstbeste Ausrede ; die erste,die bester Ausrede)を試みる人間であつて、『任意の觀點』(jedes beliebige Moment)を捉へて『勝手に』(nach Beliben)『あれやこれや』と(über dies und das)理窟を揑ねてゐれば『たとへ何からでも』(aus allem und jedem)立派な口實を拵へ上げる事が出來るといふことを知つてゐる。その代り誰もniemand ; keiner ; kein Mensch)彼を信じない、誰もjeder ; en jener ; jedermann)彼を軽蔑する、etc.

ここのところは非常な名文で面白いものですが、ことば、ここでは認容がこういう側面をもっているということが、鮮やかに示されています。

 

散文の面白さのひとつがこういう論理の展開の仕方ですから、小説が読めない人などはことばのこういう面に疎いといえるかもしれません。

おまけ 音楽の論理的展開について

音楽理論を勉強していると、語学で学ぶことと非常に似通った点があることに気が付きます。

音楽は時間とともにあるわけですから、前後があり、そこにことばと似た”時間経過に伴う論理的展開”とも呼ばれるものがあるわけです。

 

もちろんことばの場合と全く同じではなく、音楽独特の在り方があります。

具体的に例えば、

・旋律と伴奏の同時関係(これは全く音楽的)

・ある旋律とある旋律の継時関係

・ある調から転調して異なる調に行くという前後の関係

などです。

音楽もまた注意深く聴いていると作曲家によってこれらのことが巧みに処理されていることがわかります。

これらについてはまたそのうち記事にするかもしれません。

 

これらのことを考えると、音楽によってまったく言語的な能力が育てられるということもおそらくありうると思われますが、どうも音楽のこういう面は無視されがちなようです。

おわりに

 ものを読むことは、ここではおよそ古典的な、もしくは普遍的なものを読むということをさしますが、好きか嫌いかによって左右されてはならないでしょう。

自己を善く形成するために必要ならば、どうしても読むしかないと思うのです。

 

僕も実はあらゆる本を好んで読むのではありませんから、普段本を読まない人を一方的に非難する気持ちにはなれません。

だからといって、本を読まずに済まされるとも思いません。

個々人の能力に差があることはどうしようもないことですが、それぞれ出来る限りでよいから少しものを読もうというわけです。

もし普段全く本を読む機会がないという人がいればこれを機会にちょっと本を開いてみてはどうでしょうか。

 

 

 

今回はこの位にしておきます。

ちょっと雑然としてしまったようですが、まあいいでしょう。

どうも書いてうんざりしてしまいました。

読んでくださったかたも、同じくうんざりしたと思いますが・・・

 

 

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