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頭の良さとか記憶力とか、結局自分次第なのかもしれないという話。

きつねの話 きつねの話-きつねの戯言

今時のような、暑くて蒸している天気が続くと、気が散っていけない。

台風が遠くのほうを通っていくので、風はないけれど少し強い雨が朝から晩まで降り続けているその音を、ぼうっとして聴いていると、何か意識がぼんやりしてくる気がする。

 

 そんな調子で朝から晩まで長雨に合わせて一本調子、気も虚ろに過ごしていると、頭が活潑に働いているときとはどうも違う気がする。

目から見える景色が、耳から聞こえる音が、すべてぼんやりしてはっきりしない・・・

 

もしかするとぼうっとしていると、馬鹿になるのかしら。

夏になって馬鹿になった話

僕はもともと『梨のつぶて』に書いたとおり、気の早いほうではない。

本を読むときも、読み始めはどうも書いてあることがすんなりと入ってくることあたわず、何か目の細かいザルに泥をねじ込むようなはかどらなさでどうしようもない。

 

それが十ページか二十ページくらい読んでいると、始めとうって変わって、文が、まあことごとく比喩を使う必要もないのだが(笑)、岩の間を滑らかに流れる水のごとく頭に入ってくるようになる。

 

十ページか二十ページを読む間に僕の頭が、もう少し出来のよいものと交換されたわけでもあるまいから、どうもこの間に僕の目が覚めて、気が冴えたようなのである。

それを考えると、普段ずっと同じ頭がついていても、頭の力というのはその時々によって変わっているらしい。

集中?

勉強とよく合わせておかれるのが”集中”とか“集中力”とかいう学校で嫌になるほど聞いたことばだが、上にいう気の冴えというのは集中というのと同じだろうか。

 

”集中”というのは「意識を集中する」ということであって、あるひとつのことに意識を向けることである。

それならば僕が本を読むとき、最初の一文字から達成せられることである。

 

いや、確かに僕の場合全く集中できないこともある。

本を開くや否や、何故か膀胱が活発に動き出し、尿意を催す。

トイレにいってそれが解決すると、なんとなくのどが渇いたような気がして、よしお茶を持ってこようとなるわけである。

少し食べるものもあれば具合がいい。

暑いからか少し辛いものが食べたくなる。最近はご飯を豆板醤をもとに少し辛めに味付けして食べるのが好きだ。簡単に作られるから作ってしまおう。

ご飯を食べるときは本を汚すといけないから、本は閉じておく。

食べ終わったらちょっと休憩したくなる。ベッドに寝転がる。窓からはいってくる風が心地よい。うとうとしてきた。

 

これが集中力のない場合である。僕は集中力がないからよくこれをやる。だめだ。

まあしかし集中力があってもなくても、意識が冴えるときはある。

集中のコツ

ついでだから僕の思う集中のコツを書いておく。

それは集中せざるを得なくすることである。

 

僕が一番集中できるのは、バスの中である。

バスでなくて電車でもよいのだが、僕は普段長い距離を電車で移動しないからバスというわけ。

バスは30分くらい乗っている。

その30分は家でのぐうたらぶりが嘘のように集中できる。

何故かといえば、バスの中はトイレもないし、お茶もないし、ご飯も豆板醤も、ベッドもないからである。本を読むくらいしかできない。

仕方ないから本を読む。

 

これが驚くほど集中できる。

それ以外やることがなければ、何もしないか、それをするしかない。

僕は本を読む気は常にあるから、よっぽど疲れていないかぎり、本を開くことになる。

 

街のカフェ~で勉強をしている学生はそういう意味では合理的かもしれない。

僕はやらないが。

 

まあだからとにかく、集中せざるを得なくすることである。

僕は試験がせまってどうにもならないときベッドの上をもので埋め尽くしたことがある。これは抜群の効果を発揮した。

 

最近は集中したくないから、もちろん埋め尽くさないし、お茶を何度も汲みに行く。それでトイレに何度もいく。

そろそろどうにかしないといけない。

精神の進退

頭の状態が刻々と変わっていくのだとしたら、今考えていることが昨日考えたことよりも優れていることがあるかもしれないし、もしくは逆に昨日考えたことより劣っているということもあるかもしれない。

 

世間では人間は時をふるごとに賢くなっていくかのように考える風潮があるから、なんとなく自分もそうで、一年前の自分より今の自分のほうが、精神的に成長しているのだ、などと考えてしまうけれど、なるほど確かに知識は単純に一年分増しているかもしれない、でも明晰さ、強さ、柔軟さその他色々、全て一様に進んだだろうか?

 

精神の活動に進退があって、それが何か自分の努力次第で変えられるものだとすれば、それが進歩するように仕向けることもできるかもしれない。

ことばと冴え

僕の今感ずるところでは、やはり意識の冴えというのは、”ことば”に触れるか否かで全く違ったものになる。

やはり、ぼうっとしていて何も考えないでいると、自分が馬鹿になっているのをひしひしと感じてしまう。

本を開いても文字がぼんやりしている。しかし、30分も読んでいれば、段々はっきりしてくるのである。

 

夏になってから僕は随分と馬鹿になったけれど、秋になったらもう少し賢くなろうと考えている。

考えてはいる。

 

 

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