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きつねの音楽話

老人性古本症候群を患った若者の徘徊ブログ

”友達”がわからない人の、友情についての話

今週のお題「買い物」

 

少し前、先生と徘徊していてシューベルトの「冬の旅」のCDが安く売っているのをみつけた。

歌はフィッシャー=ディースカウである。

 

僕はこのところシューベルトに少し興味を持っていたから、ちょうどよいと思って久々にCDを買った。

CDは高価なものである。

 

その日のかえり、先生がこう話した。

「実は庭の大きな梅の木を少し切らなければならないのです。

いつでも構いませんから、私が落ちないように見張るなり支えるなりしてほしいのですが・・・」

僕はもちろん快諾した。

 友情の話

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当日たしか二時くらいに駅で待ち合わせをした。

先生が日の光を嫌うのもあって、

いや僕は少しでも明るいうちのほうがもちろんよいと思うのだが、

まずそばを食べてから向かうのだという。

 

そば屋へ行くのにニ十分くらい食べるのに三十分くらい戻るのにニ十分くらい、それから先生の家まで電車にのって三十分以上はかかる・・・

まあだいたいはこの調子である。

僕も時間を守れないというか、守らない人間だが、先生の時間というのは特別である。

前にこういうことがあった。

 

冬の大雪が続いた日、屋根の雪をおろさないといけないというので、その日もまた駅で待ち合わせをした。

先生は待ち合わせから十五分から三十分遅れてくるのが常でその日もたしか少し遅れてきた。

そしてついてこういうのだ。

「ひとまず座ってコーヒーでも飲みましょう。」

その喫茶店は主な新聞が全部そろっているから、それを全部ながめまわす。

僕ももちろん読む。

そして一通り眺めて、一通り話して、時間をみるともう日が落ちてから暫くたっている。

先生はこういうわけである。

「今日はもうやめにしましょう。」

 

そばを食べ終わって先生の家につくころには日もすっかり暮れて少し冷えてきていた。

先生の家の、鬱蒼と茂った庭の奥に一本の巨大な梅の木が生えていた。

僕はそれまであそこまで大きくなった梅はみたことがなかった。先生にきくとふつうは剪定をして伸びないようにするそうである。そうしたほうが、梅にとってもよいのだという。

つまり僕が普段このくらい、とみている梅は小さく抑えられたものだった。

 

その大きな梅の木には”あけび”のつるがぐるぐると巻きついている。

あんまりたくさん巻きついているから、夜の闇も手伝って梅の樹形が一目ではわからないほどである。

僕はあけびやその他の草に謝りながら、小さなのこぎりで目当たり次第次々に切っていった。とはいっても多少は園芸の心得があるから切っていい枝と切ってはいけない枝くらいの判断はつく。

 

問題は梅というよりあけびだった。

「このあけびが事態を非常に複雑困難にしている。」

といった先生の言葉が、なにか非常に的を得て、またもっと大きなものを捉えているような気がして妙に納得した。

菩提樹

とにかくあけびを切って、梅の木の形がなんとなく見えて来たところで、その日の作業は終りになった。

庭の様子を色々とみながら、後片付けをしていると先生はなにかドアのところでごそごそやっている。

そのうち何か紙の束を持ってきたと思ったら、それが「菩提樹」の歌詞と楽譜だった。

 

僕がCDを買った時、あるいはすでにこのことが頭にあったのかもしれないし、

もしくは本当にたまたまそこにあっただけかもしれない。

とにかく僕はこういうことがたまに起きるのが面白くて、また不思議なのである。

その先生がごそごそしていたドアはもう使っていない物置きのようなところだった。

 

ところで菩提樹と言うのは、木そのものが僕にとって懐かしいもので、

先生が初めて教えてくれた木が、かつらと菩提樹だった。

前に何かの記事で書いたが、例の喫茶店の大窓からかつらの木が見える。

そしてそこからしばらく離れたところに菩提樹が数本生えている。

 

菩提樹はドイツ語でLindeというが、ベルリンの中心街のことをUnter den Lindenというらしいから、ドイツでもなじみの深い木なのであろう。Unterは英語のunderである。

それからlindenまたはlindernで、意味はやや異なるが、共に静めるという意味があって、実際菩提樹の花には沈静作用がある。これはハーブの図鑑などにも載っている。

菩提樹の伝授

電車の中で、僕は菩提樹の歌詞を眺めていた。

そしてあれこれ話していると、先生は

「それをTままさんにまた伝授してください。」

などといって、僕に課題を与えたのだった。

 

fuchssama.hatenablog.com

 Tままさんというのはこの記事などに登場したばあさんである。

 

僕は今度のこと、それからこのコーヒーカンタータの事件を思い返してなにか真面目に考えこんだ。

思えば、僕は小さい時から”友達”というのが苦手だった。

苦手といっても友達がいないわけではなく、少なくもなかったが、”友達”という存在、概念、がなにか定まらなくてどうあつかっていいのかわからないかった。

 

ちょっと込み入った話になるが、

僕にとって僕の世代、もしくは時代において、人々のうちに無意識に定義されている”友達”というものが理解できなかった。

友達の作り方がわからなかった。

きっと僕に友達はちゃんといて、周りも僕のことを友達だと思っていたとは思う。

ただ何かが足りなかった。

 

それが先生や、Tままさん、もしくは僕のペンフレンドのSさんとのやりとりのうちに見えてきた気がしたのだった。

友人との関係

思い出せば、コーヒーカンタータの事件はとても面白いものだった。

僕も、先生も、そしてTままさんもみんなコーヒーカンタータという共通のものに、同時に関心をもって、ドイツ語学者である先生とバッハ好きの僕とそして話題の提供者であるTままさんがなにか意味のある繋がりをもっていたような気がするのだ。

僕はそのどこかに“友情”というものがひそんでいたのではないかと思う。

コーヒーカンタータだけではなく他のこと、例えば漱石なんかについても同じように三人でとりくんだことがあった。

 

よく考えてみれば、僕がこれまでみてきた”友達”というのは、もとから何か共通の要素をもった人、もしくは同じ趣味(Hobby)をもった人の集まりだった。

まあ僕たちも本が好きとかそういう共通要素はあるが、こういうものとは違うところが確かにある。

およそ普通にみられる友人というのが、あることがらの結果に対する共通の興味をもとにするのと違って、今度の関係はある人のことがらに対する興味に対しての興味という部分を含んでいた。

何かヘタな哲学書のようだが、つまりはこういうことである。

 

コーヒーカンタータという同一の対象はあったにせよ、Tままさんは”僕の”見方に対して関心を示してくれていた。

先生と僕がドイツ語で遊んでいるのを知っていて、コーヒーカンタータのドイツ語の意味が知りたいといったのである。

人に対する信頼

何かこういう話をするのは僕としてはちょっと気がひけるのだが、まあたまにだから許してほしい。

人に対する信頼は種々あるが、人の趣味(Geschmack)に対する信頼というのが、友情の前提として重要なのではないかと思うわけである。

 

世間で評判だからとか、有名だからとかいう理由ではなくて、この人が面白いといっているからとか、興味をもっているからという理由で、何かにとりくむ。

僕は僕が読んでいる本に誰かが興味を持ってくれて、そして読んでくれた時、素直に嬉しい気持ちになる。

哲学書ではないのだからここまでいう必要もないが、うるさくいえばその時、現実にある”人間”としてではなく、”人格”をみている必要がある。

 

僕は先生を心から尊敬していて、先生の勧めるものはよく注意してとりくんでいる。

しかし、先生もまた僕が興味をもっていること、話題にしたことに対して、興味をもってくれるのである。

お互いが、お互いの趣味に対して、自分の行動範囲を越えて関心をもつ、ということがよい友人関係にとって大切なことなのではないかと、今度のことで考えたのである。

あとがき

いま世間を眺めると、やたらに平等主義が流行っているようである。

えせ平等主義である。

自己の判断が、自己にとって間違いなく正しいという価値観である。

もしかすると自分の判断は間違っているのではないか?という疑問が毛ほどもない。

自分は今こう考えている、しかしもっとよい考えがあるかもしれないという考えに至らない。

 

そういう考えだと、この価値感という前提のところで、人の判断や趣味に関心を持つなどということが不可能になるのである。

これは相当に危険なことでもある。

まあこれ以上はこのブログが扱う範囲を越えてしまうからやめにしておく。

 

このブログでは、何かごちゃごちゃと紹介しているが、僕の書いた記事で誰かが何かに興味をもてば面白いと思う。

”僕が紹介しているから”ちょっと試してみようなどという人がでたら、もしかするとそこに友情があるのかもしれない。

そういえばプラトンも「リュシス」のなかで”ピリア(友愛)”について触れていた。

もう随分前に読んだから、ソクラテスプラトンがピリアをどうといていたか、詳細を忘れてしまった。

僕はこの記事でずうずうしく友情について話したが、ソクラテスなどという巨人の考えに何か少しでも即するところがあるだろうか。近いうちに読んで確かめてみようと思う。

あとがきのあとがき

 調べてみると、いまプラトンの著作はソクラテスの弁明等有名なものを除いて、あまり出版されていないようである。

 

リュシスは中央公論社の『世界の名著  プラトンⅠ』等に入っている。

この田中美知太郎さん等の訳は僕は好きである。

手に入れにくいときは大きい図書館なんかにいけばプラトンのものは必ずあるだろうから借りてもいいかもしれない。