当ブログは移転しました。

きつねの音楽話

老人性古本症候群を患った若者の徘徊ブログ

本が読めない人について、きのこ採りに行って考えた話

今度旅へ行った時にきのこを採った。

山へ水を汲みに行ったときに偶然なっているのを見つけたのと、別の日にきのこ目的であたりを散歩した。

 

といっても僕はきのこを見分けられない。

 

山へ行きがけにみて、さっき(食べられる)きのこがあった、というので、見に行くと本当にきのこがあって、僕にはわからないが、とにかく食べられるきのこらしい。

 

そのきのこは木の高いところになるもので、道路から少し離れた藪のなかにある。

僕も切られたきのこを受けるのに袋をもってついていく。

ぶどうをとる専用の道具できのこを根本から切り取った。

幼児期の一定量的体験について

今度は初めからきのこを目的に歩いた。

 

目線から上のほうに向かって、いくつもきのこが生えている。

木の側面から一旦横向きに生えて、それから急に方向を上に向けて伸び、その上に”かさ”をつけている。僕はそれを幹に攀じ登ってとる。

切株の周りに群がるように生えているところもあった。

きのこをみつけた瞬間というは本当にわくわくする。

 

きのこが見分けられる人というのは、ただ対象のきのこに対して、これは食べられるとか、毒だとか、そういう単純な見方ではなく、もっと複雑な見分け方をしているらしい。

同じ時期に、ある法則を以て、同じ匂い色かたちで生えているものを食べる。

というわけでこのきのこについては見分けがつくが、これはわからない、ということもあるようである。

きのこが見分けられる人と見分けられない人

ただこの見分け方というのは、あくまで僕が”きのこ探しの外側”からみたもので、当人にとってその食べられるきのこというのは一種の確信をもって見分けられるらしい。

そして、長年一緒に歩いていても、見分けられない人はいつまでたっても毒きのこを採る。

 

どうやら幼い頃にきのこを見分けられる人と一緒に山にはいって採り方を教わった、というのがその後の人生できのこを見分けられるか見分けられないかを決めるようだ。

きのこを研究している学者でも、そういう体験がないと本当には見分けられないで、しばしば毒きのこを引き当ててしまうということをきいた。

最近は山にはいる人も減っているだろうからそのうち天然のきのこを食べるのが難しくなるかもしれない。

幼児期の言語体験

よくいわれるのが、ある言語を(母国語として)習得するには何才までに教わらなければならない、ということである。

これは言語に関わらず、音楽やらなにやら色々といわれることでもあるが、とにかくきのこを採ってこのことを思い返した。

僕はどうもきのこが見分けられないらしい。

 

そして前に先生と”本が読めない人”について話したときにもこのことがあげられた。

個人の能力云々というより、幼児期に一定量の言語(読書)体験をしたかどうか、これがその後の“読む”という能力に多大な影響を与えているのではないか。

本が読めない人

ただ”読む”とか”読める”といっても、人によって仕方も精度も違うとは思うが、最近はもう漠然と”読めない”という人が増えているらしい。

そういうひとはもしかしたら幼児期(幼児から小学校くらいまで)の読書体験がないのかもしれない。

 

この幼児期の体験については人間の脳と関わって”およそ12前後までの体験”というのが鍵になっているらしい。

これは人によって違うだろうし、12才ってのはなんとも無慈悲な感じがするので、僕は”(人によって違いはするが)18才くらいまでの体験”という風に考えている。もちろん早ければ早いほどよいのだろうが。

 

だから僕は18才くらいまでの人で本が読めないという人があれば、とにかく頑張って読めば読めるようになる、と言えると思う。

しかし18才どころかもう30才を越えたような人で本が読めないという人があれば、うむ、ちょっと、これは、どうしようか。

言葉がわからなくて絶望している人への慰め

僕は日本語こそわからないということはなかったが、英語やらドイツ語やらは本当にわからなかったし、今も大してわからない。

僕が初めて英語に触れたのはたしか十才くらいのことだったから、まあまだ見込みはあるかもしれないが、ドイツ語は二十才を越えてからだったから、上に書いたことを本当にするならもうダメなわけである(笑)

 

それでも18才を越えて始めたことは全て熟達しないのだとしたら、ちょっと厳しすぎるから僕は”大人でも身につけられる方法”を色々考えて、そしてそれについて書いてあるものがあれば関心を持ってみていた。

だからこれは本が読めないとか、英語がわからないとか、はたまた楽器がうまくならないとか、そういう絶望的な大人へ向けての励ましなわけである。

子供をよく観察してみる

結論からいえば、つまり子供になりきることである。

 

少し前本屋をうろついていたら、子供が本を読む声が耳に入ってきた。

僕はそれを興味深くきいていたが、実際なんともたどたどしいのである。

子供が本を音読するときの様子を頭の中で思い浮かべてほしい。

 

一語一語、一文一文確かめるながら、つまり

い、ち、ご、い、ち、ご、い、ち、ぶ、ん・・・とこのように読む。

 

子供は大人からすると相当忍耐強い。

大人なら、そんなに時間はかけられない、なるべく短時間で、それに簡単な方法で身につけようと考える。

それをやめなければならない。

幼児期の読書

それに加えて大人には今まで立派に生きて来たという自負があるが、それはこの際捨てなければならない。

小さかった頃どういう風に読書していたか思い返してみる。

 

僕は本棚の前に座りこんで、本の背表紙を眺めた。

なにか面白そうなものがあれば開いてみる。

中をしばらく眺めてみて、読めそうだったら読んだし、読めないようだったら仕舞った。

 

そう思い返してみると、僕は読めそうなものを読んでいた。

この子供にできて、大人にできない絶妙の判断が、どうも重要らしく思われる。

大人はすぐ”飛び級”したがる。

け・つ・ろ・ん

今まで書いたことをまとめると

  1. 自分の身の丈にあったもの(読めそうなもの)を
  2. ゆっくり、時には声にだして読む

というのが言語習得のカギになるのではないかと思う。

およそ大先生の書いた参考書には、ある程度まとまった長さの文を、(できるだけ)たくさん暗記するということが語学習得に重要だと書いてある。

つまりそういうことである。

あとがき

天然のきのこはおいしい。

人工栽培されたものとは比べ物にならない。人工のものには香りがないし、味も薄い。

 

とってきたきのこは汚れを落として、少しの塩と唐辛子を入れた水につけておく。

天然のものはもちろん農薬もかかっていないから虫がつく。

こうすることによって、虫がでてくる。

 

きのこ採りは本当に面白いから、きのこ名人が身近にいればそれについていくのもいいし、自分で採りにいけないという人も、路上販売などで天然のものが売られていたらやや値は張るかもしれないが、買ってみるとよいと思う。

きのこももしかすると、幼児的修行をつめばわかるようになるのかもしれない。僕も今回のきのこ採りで、とあるきのこの姿が脳裏に焼きついてしまった。