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きつねの音楽話

老人性古本症候群を患った若者の徘徊ブログ

コーヒーは苦いから飲む、他

このところコーヒーを飲む回数が増えてきた。

前は喫茶店に行く日、週に一度か二度飲むだけだったが、最近はほとんど毎日飲むようになってしまった。

 

 最近のコーヒー事情

喫茶店で先生にこの話をしたら、笑いながら、「それはいよいよ文化人に成ったということですね」とかなんとかいっていた。

文化人をここでは文人とか読書家に訳してよいと思うが、そういう人たちは言葉という難しいものを集中して扱うために、何かの力を借りることが多い。

コーヒーとかたばことか、もしくは何か覚醒剤の類である。

文字とずっとにらみあうというのは、動物自然のありかたに全く沿っているとはいえないらしく、だからこそ人であるのだが、とにかく非常に疲れることである。

それで目を覚ますためにいろいろやるのだ。

 

明治のものを読んでいるとよく”散歩”にでることが書いてある。

京都の哲学の道なんかも有名だが、鬱とした気持ちを晴らすために散歩をするのは明治なんかよりはるかに昔、古代ギリシャの逍遥学派がすでにやっている。

※アリストテレスの一派はリュケイオンという学園内を歩きながら学問していた。

逍遥学派の場合、近現代のように病的ではなかったろうから、鬱ではなかったかもしれない。まあでもとにかく歩くことが頭の働きに有益だということであろう。

 

僕は確かにコーヒーを嗜好品としてより目を覚ますために使っているのだが、”文化人”などとたとえユーモアの中の言葉であっても、何か喜ぶ気持ちにはなれなかった。

このコーヒーは本当に必要なのだろうか、と考えてしまうところがある。

夕食後

夕食のそばのあとにはいつも幾通りかのやりかたがある。

古本屋に行くか、喫茶店に行くか、それを組み合わせるか。そのまま帰るときもある。

しばらくの間は新聞社に入っている安いコーヒー屋に入って、新聞を読むというのが習慣だったが、最近はそば屋の近くにある喫茶店に行くようになった。

この喫茶店は僕の街に古くからある店で、僕はこの喫茶店が街で一番だと思っている。それには先生も賛成してくれた。

 

 そば屋はビルの地下0.5階ともいうべきかわった場所にあるのだが、地下と連絡する階段があって、これがそば屋からでると一度下がり、そして踊り場をはさんで上と下に向かっている。

この階段をあがって、外に出ると街の中心部に出る。

そして数歩進んだところ、隣のビルにその喫茶店は入っている。

ビルの戸をあけるとすぐに階段が下にのびていて、その脇には開店の証の樽がおいてある。

 

階段が尽きたところにドアがあり、そこが喫茶店の入り口になっている。

店はひろめで、正確に数えたことはないが、テーブル席が20位、黄味がかった照明が照らしている。

コーヒーは自家焙煎、お菓子は手作り無添加で、さらに値段も安いという奇跡のような店だ。

僕たちはいつもドアをあけてまっすぐ行ったところ、振り子のついた掛け時計の前に座る。

店は7時に閉店するが、着くのはだいたい6時15分ころだ。

 

席につくと婆さんが、はいどうしますか、とさっそく注文をとる。

先生は決まってモカを頼むが、僕はメニューを開いてみる。

この店はストレート他も値段が安いから選び甲斐がある。

婆さんは僕の決めるのを待たずに、はいはいごゆっくり等といって厨房にさがってしまう。

そしてまたすぐに注文をとりにくる。

 

注文のあと間もなく砥部焼のきれいなカップにはいったコーヒーがでてくる。

コーヒーは爺さんが淹れる。

ここのコーヒーはやや濃いからミルクをいれるとちょうどよい。

ミルクはみたところ銅かなにかの、ピッチャーにはいってでてくるが、これがすぐに使わないといけない。

婆さんが下げてしまうからだ。

僕はブラックである程度飲んでからミルクをいれたいのだが、この店ではそれがゆるされない。

この婆さん、とんでもなくせっかちなのである。

まだ済んでいないのに次々とさげていく。ミルクも手拭も下げられないうちに使わないとだめだ。

 

僕と先生は新聞を読んだり、その日の残りの会話を45分のあいだに済ませて、7時少し前に店をでる。

喫茶店というと長居しがちだが、このくらい短時間で済ませてしまうのも意外と気持ちがよい。

コーヒーの豆がかわる

いつもの喫茶店に行ってコーヒーを頼んだら、いつもと味が違うかもしれない、というから、なぜかきいたら、豆をかえたのだという。

ああそうとそのまま飲めばよいものをどうもわけが気になってさらに問い詰めたら、問屋がやめてしまったことを教えてくれた。

 

確かにこれまでのものより酸味がある。

わけを聴くとなおさら違う気がする。

ただ味の骨格というか、基本的な味はかわらないように感じた。

そういう豆を選んだのかもしれないし、淹れ方が同じだと似たような味になるのかもしれない。

 

僕はコーヒーをほとんど飲まないうちからこの喫茶店に通い始めて、この喫茶店のコーヒーを飲み、味が多少わかるようになった。

僕は毎回々々同じブレンドしか頼まない。

毎回同じ品を頼むというのは毎回違う品を頼むのに比べれば、選ぶ楽しみとか、見た目や味の派手な変化というのが少ない。

きっと同じ店で毎回同じメニューを頼む人というのは少数だろうと思う。

ただずっとこれを続けていると面白いことがわかった。

 

もちろんメニューにのっている全てのものを試してみるというのも面白いと思うのだが、このただ一つのものを頼み続けるというのも意味がある。

僕のなかで全くコーヒーというものの基準ができあがってしまったのだ。

他のコーヒーを飲んだときに、この基準と比べて楽しむことができる。

なにもないところに基準をつくるのは難しいが、ひとつ基準ができるとふたつめをつくるのはたやすい。数回で味がわかる。

 

ひとつ確固たる基準をつくってしまえば、あとは勝手についてくる・・・

なにかどこかで聞いた覚えがあると思ったら、これは僕の習う語学の鉄則だ。

結局なんでも同じことなのだというありきたりな結論に、またもやたどりついた。