当ブログは移転しました。

きつねの音楽話

老人性古本症候群を患った若者の徘徊ブログ

要らないものが役に立つこともあるという自分への言い訳

昨日、ここのところあまり英語に触れていないということを急に自覚して焦り、さあ何かちょっとでも読もうと思い、考えた。

途中まで読んでうっちゃらかしているものを済ませてもよいが、うっちゃらかしたのは読むのがつらかったからで、そういうものに体当たりをする元気は今はないやと易しいものを読むことにした。

 

いまは金星が見ごろですね

ちらと本棚を眺めて目に入ったから、ピーターラビット作品中読んだ事のないものを読むことにした。

僕の持っているものはChatham River Pressというニューヨークの会社のもので、この本は副題が「With Thirteen Beatrix Potter Stories and Her Illustrations」となっていることでもわかるとおり、13の話が挿絵付で収録されている。

 

挿絵はカラーのものが多いが、銅版画風のものもあり、それらが組み合わされている話もある。”Her Illustrations”というのだからポッター本人のものなのだろうが、それぞれがどういう経緯をもっているものなのかは知らない。

カラーのものは油彩のように見えるがどういう手法でかかれたものかはっきりしない。(境界線が黒いのが特徴的に見える。)

 

それで編集の意向もよくよめないのだが、とにかく視覚的には美しい本だ。

カラーのハードカバーにカラーのカバーがつき、本文は1ページにふたつかみっつの絵が左右交互に並んで、となりに文章がくっついている。

さらにすべてのページの上下に銅版画風の装飾がついているという、贅沢な本である。

英語なのがどうも日本人がもつのに不都合があるが、別にそんなに難しいものでもないし、見ているだけでも気分のよいものだから、おすすめの本ではある。

 

それで、その中の「The Tailor of Gloucester」という話を読み始めた。

しばし、読む

目次で

The Tale of~

The Tale of~

と並んでいるうちにThe Tailor ofとあるからはじめTalerと読んで、語り部のことかなあと思ったが、よく見たらTailorで、これは”仕立て屋”のことである。

※tale(テイル)はいわゆる物語。The Tale of~ で~の話の意。おとぎ話をfairytail(フェアリーテイル)などという。

 

それで今ちょっと気になって、Talerを辞書で探してみたけれど、このままでは載っていなかった。

物語をする人のことは”taleteller”とか、よくきくように”storyteller”とか言うらしいが、talerでも、音声ではだめかもしれないが、文字なら伝わらないこともないと思われる。おそらく。

ドイツ語では物語ることをerzählen(エアツェーレン)といい、taletellerをErzählerという。

僕のもっているレクラム文庫のグリム童話の挿絵に老婆の銅版画があった。

※レクラム:ドイツの古くからある出版社。レクラム文庫は岩波文庫などの範になった。

頭をすっぽり覆う帽子をかぶり、首には襟巻き、(毛皮の)ガウンという格好で、

テーブルの前に座り、手をその上に組み、手元にすみれのようなものをもっている。

画の下に「Märchenfrau」と書いてあった。

僕はメールヒェンフラオ?この婆さんこの年になってもおとぎの国に住んでいるのかなあと思ったが、Erzähler(女性形はErzählerin)のことらしい。

「物語(Märchen)婆(frau 女の意)」というわけである。

表現が直接的で面白いなあと思った。

※Märchen:fairytale 日本語でメルヘンとかいっているのはこれ。

 

さてメールヒェンフラオなる言葉があるということはドイツには”物語婆”というのがいる、あるいはいたということだ。

婆さんが子供や孫にメールヒェンを聞かせるだけなら、メールヒェンフラオとはいわないだろう。なにか特別に、あの人はメールヒェンフラオだ、という状況があったにちがいない。

さがしもの

The Tailor of Gloucesterはもちろん仕立て屋の話だ。

次の土曜までに何着も仕立てないといけないというので、忙しく働く老仕立屋と飼い猫のSimpkin、そして街の鼠たちの話だが、仕立て屋のはなしだからもちろん裁縫に関わる言葉がいくつかでてくる。

僕は、なんとなくわかるものもあるが、そのへんあまり詳しくないので、わからないものも結構あった。

ただ、辞書をひき始めると全く気楽じゃなくなるし、ひいた所で、これはあれで、これはあれとただそういう”関係”がわかるだけだからやめにしておいた。

日本語を読むときも同じだろうけれど、名詞はわからなくても読解に支障のないことが多い。

 

とにかく半分くらい読んだところで、英語読んでない危機感は去ったので、とりあえずしまいにして枝折を挿むことにした。

この本はA4くらいのサイズで大きいから大きめのをはさもうと思ってみたが、ではらっている。

僕は記念品やらプレゼントやらでいろいろの形のしおりをいくつかもっているが、それがほとんどみあたらない。

はてどこにいったかと見当をつける。どこかにはさまっているはずである。

まあ僕が特別な枝折をはさむ本というとおおよそ決まっている。岩波文庫のようにもとから枝折がついているのではないもので、さらに比較的新しいものだ。

さらに語学書などは枝折ではなくてメモをはさむ。

というわけで蔵書の中でも限られてくるのだ。

 

僕ははさまっていそうな本を片っ端からぱらぱらし始めた。

ぱらぱら ぱらぱら ぱらぱら・・・

本箱の奥にあるものも引きずりだしてぱらぱら ぱらぱら ぱらぱら・・・

もうひたすらぱらぱらした。

しばらくそうしていると、いくつか出てきた。

発表会の記念品でもらった鎖の先にヴァイオリンのついたものや、シャガールの展覧会で買ったもの、友人のスペインみやげ・・・

ああ、こんなものもそういえばあったとちょっと面白かった。

ただ、ピーターラビットの本にふさわしいと見当をつけたものがでてこない。

またぱらぱらしはじめた。

 

どこかにも書いた気がするが、僕はさがしものがとにかく苦手で、だからこそなくさないことに全力を注いでいるのだが、しおりは僕の注意をかいくぐってなくなっていく。

本が読み終わったとき、しおりは回収される。

読み終わらないと回収されない。

この巧みな罠によって、ぼくの枝折はどんどん封印されていくわけだ。

 

今回もまた、すでにみたところを繰り返してみるという無駄を数回くりかえした。

結局さがしものはみつからなかった。

いらない本を買う

ところで、蔵書を改めて見るとものすごい冊数になっている。

僕は近頃本をなるべく買わないようにしている。買わないようにしていても買ってしまうから買わないようにしているのだ。

 

僕はふつう人がやらないような本の買い方をしてしまう。

その一つが名づけて”未来予測型購入”である。

それは今必要な本ではなくて、将来必要になるであろう本を買ってしまうというものだ。

それも単純な話ではない。

将来必要になる本はいくらでもある。僕の場合は将来必要になるであろうということに加えて、現にであった本が低価格であること、もう何年もすれば手に入りにくくなるだろうこと、などといういくつかの条件が重なったときその本が購入対象になる。

これは古本を日々みて、研究した結果起こった災難である。

ここで逃したら、この条件ではもう一生であえない。

という判断が下されたとき、どうしようもなく買ってしまうわけである。

 

先日もある古書店に古い主に岩波などの文庫が大量に並べられていた。

その中に主に海外のもので、しかも戦前出版の貴重な一群があった。

僕は最近主に日本人が日本語で書いたものを読んでいるから、翻訳ものはいつになったら読むかわからない。

しかしこれが、旧版の古い岩波で、しかも旧表記という点でみれば国文学よりはるかに貴重な海外文学が低価格で売っている、となると買わずにはいられない。

 

その中に「トルベウユシ ツンラフ」という題のものがあって、岩波文庫にこんなものあったんだなあと感心したが、別にシューベルトはそこまで熱心に研究しているわけじゃないしと思い、一度は棚にもどした。

が、”一群”の中、この一冊だけを残していくのは何か、子犬の兄弟をばらばらにするような気がしてそれも買ってしまった。

その日は全部で16冊にもなった。

完全なる古本病である。反省した。

偶然のまなび

 まあただ要らない本を買うといっても、

これこそ未来的な買い物で、これを買うことによって本来勉強することにならなかったかもしれないこと、つまりシューベルトのあれこれを、詳しく学ぶことに繋がると考えられるかもしれない。

 

ものごとにはもともと目指すことから外れたところに意外な学びが隠れていることがある。

例えば『本を読むとき”隠れた繋がり”をたどると面白いよという話』で書いた、青柳さんの本を読むことによってやきものや乾山に興味をもった、というような事である。

 

最近ドイツ語を読んでいたら、Planetenbahn(惑星軌道)とかPtolemäische Epizyklen(プトレマイオスの周転円)とかauf Kreisformischen Bahnen(円軌道をえがいて)とかauf epizyklischen Bahnen(周転円軌道をえがいて)とか天文学の言葉がでてきて、しかもそれで哲学的認識の進歩を説明しているという文章にあたった。

まあなんとなくはわかるが、なんとなくわかると、なんとなくで済ましておくのも恥ずかしいような気がしてきた。

そういえばGeorge Gamowの「Biography of the Earth」という本にこういう箇所がある。

If the Moon is simply a giant lump of matter torn from the body of Mother Earth, how did it manage to get so far away from the place of its origin and is it still receding?

 もし月が単に母なる地球から引き裂かれた物質の巨大な塊であるならば、どのようにその元あった位置から離れ、さらに未だ離れ続けているのか。

これが興味深いところで、ダーウィンの証明によると、”引力”は互いをひきつけるにも関わらず、その力によって月は地球から離れ続けているらしいのだ。

 

僕はこれを読んだときすでに、天文学というのも面白いなあと思っていたが、

今度のことでいよいよ星の軌道について調べようと思っている。