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きつねの音楽話

老人性古本症候群を患った若者の徘徊ブログ

不可逆性、円運動上、螺旋上の日常

人生には、などというと大仰なものいいだからもう少し控えるとして、日常、生活には、一度始めてしまうと引き返せないことがある。

 不可逆性の日常

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これは庭に咲いたチューリップである。

僕は別にチューリップを好まないがいつか母が買ってきて植えたものである。

そしていつの間にか僕が育てている。

知っておられるかたも多かろうが、チューリップは普通種ではなく球根を使って発芽させ、花を咲かせ、次の球根を太らす。

花が終わると種の部分を切り落とし、球根に栄養を送る。

地上部が枯れる頃、球根を掘り起こして干す。

そして、冬になる前にまた植えておく。そうすると春になってまた芽が出る。

 

僕はもう暫くすると茎の上を切り落とすだろう。そして球根を掘り起こす。

秋が過ぎて雪のちらつきそうなとき思い出す。

「チューリップを植えて終わないと」

そして寒風の吹く中、冷たい土に球根三つ分ほどの深さの穴を掘り、向きを揃えてぽとぽと落としていく。

 

僕はこの習慣をやめることができない。

チューリップが自然に力を落として、絶滅してくれればいいのだが、減るどころかむしろ年々増えている。花が終わると元の球根部分から地下へ管が伸び、その先にまた球根が出来るが、立派に育ったチューリップには一つの球根にめでたくも幾つかの子球根がつく。

僕はチューリップの生命活動周期の中に捉えられて、チューリップは僕の庇護のもと大いに勢力を伸ばしつつある。

 

 

ところでチューリップというのはよく花壇に植えられるものである。

花壇だけでなく、春になると道路脇などにずらりと並ぶのを見る。

僕は毎年所々のチューリップをみるが、チューリップの花壇につきものの問題というのがある。

「チューリップはやく切りすぎ問題」である。

 

上にも書いたとおりチューリップというのは花後、花を切り落として球根を太らすのだが、花が咲いたと思ったらもう首が落とされている。

チューリップの花は一株にひとつであるし、長持ちするものでもないのだが、それにしても早すぎる斬首である。

”花を楽しむ”のが本来の目的で、そのために球根を太らせるのである。

それが球根を太らせるためには花後実を落とさなければならないというので、本末転倒して、球根を太らせるために花を咲かせているがごとくなっている。

 

 

・・・話を元に戻すと、とにかく生活には一度始めてしまうと引き返せないことというものがあるものである。

一度捉えられると逃れられないものというのはたくさんあるから日々そういうものに引きかからないように注意しなければならない。

円運動上の日常

一年が365日なのは地球の公転周期が365日と4分の1ほどだから良いとして、月や週はどこから出たものだろうか。

1週間が7日なばかりに、平日が5日や6日もあるわけで、もし1週間が3日で週休1日だったら平日は2日で済む・・・

おそらくは7日周期というのが人間を大いに働かせるのに適しているのであろうが、皆この週というものによくなじんでやっているようである。

学校や会社もこの週と曜日に沿って動いているので 我々の生活は週と曜日にはめ込まれている。

この曜日はこれをする、この曜日はあれをする、この曜日は休む・・・

 

気が付くと毎週まいしゅう同じ動きをしている。あっという間に一週前の自分と同じ自分がいる。火曜の自分は確か一週前にもいた。今日の自分は来週にもいるだろう。

生活がぐるぐる円を描くように動いていく。

 

友人にこのことを話すと、友人と同僚はこのかわり映えのない生活を大いに危惧して積極的に生活に変化をもたらそうと努めているらしい。

次の休みはどこへ行き、連休あれば遠出する。

 

平坦な生活に小さな丘をつくるのに旅行するというのは安易な方法だと思うが、果たしてそれで問題が解決するかといえば、それは疑問である。

螺旋状の日常

僕のペンフレンドであるSさんは老婆である。

Sさんによると時というのは真直ぐ動くものではない。

人生には幾度か同じ点に戻ってくる瞬間があるというのだ。

 

Sさんの手紙に描かれた”時”は、円柱の側面をなだらかに登っていくような螺旋状の線の形をしている。

一周して戻ってくると前と高さが異なってはいるが、一致するところがある。

数学的にいうと、y座標は異なるがx座標は一致する。

 

その周期というのがどのくらいのものなのかしらない。

Sさんは空襲の記憶があるくらいだからもう何周かしているのだろう。

僕はいつ戻るのか、またはもう戻っているのか、過ぎたのか。

 

死ぬまでは生きねばならないというので、生活と時のことを考えているとますます不思議に思われてくる。