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地下通路で人の心が失われる現象について

きつねの話 きつねの話-きつねの戯言

 僕についてはどちらかというと、勉学というより徘徊のしかたを習いに行っているといったほうがよい。

街には面白い場所が点々とあってその間を渡り歩く。

その徘徊先のひとつにそば屋があるが、

そのそば屋へ行くには、駅からまっすぐ伸びた地下通路をひたすら歩いていく。

世界が自分の心に収まる瞬間

地下通路ではこちらから行く人、向うから来る人がまるで地面が動いているかのように、ずるずると進む。

僕もその流れにのって、歩いていく。

 

行き来する人ごみの中をそば屋へ向けて歩く。

僕の歩く先にはそば屋がある。

歩くとき、道連れは自分に歩調を合わせて、または自分が合わせて、連れ立って歩く。

他の人々は自分とは全く関係なしに、ある人は早足で先にいってしまうし、ある人は遅れて後ろへ下がっていく。こちらをみる人もいない。

 

そういう時ふと、思うことがある。

この行き来する人たちはどこに向かっているのだろう。

自分はそば屋へ行こうと思っているが、この人たちはそば屋へは行かない。

どこか別の場所へ行くのか。

地下通路を抜けてしまうと、人々はわっとそれぞれ別の方向をむいて散らばっていく。

独我論的感覚をうる。

独我論というのがある。

哲学で、 自分の周りのもの、つまり外界が、私たちの観念であると主張するのを観念論(英 idealism)という。

その観念論のもっとも極端なのが、独我論(英 solipsism)で、これは世界を個人の心の観念だとする。

この説によると、ただ個人の心だけが存在していて、世界というのはこの個人の心にうつる観念にすぎない。

となると他人もまた自らの観念になるわけだから、他人の”心”というものも認められなくなる。

 

この論自体は実際まじめに考えるほどのものではないのだが、通路で人が歩いているのをみると、この人には本当に心があるのだろうか、と思われる瞬間があるのである。

考えてみると一直線の地下通路というのは、行くか、来るかしかない。

たとえどんな目的があっても行くか、来るかしかない。

おそらく様々、ひとそれぞれの目的(めあて)があって、それに向けて歩いているのだろうが、全員が同じ向きに動いている。

その動きには人の心が感じられない。あるのは自分のGoing to Soba-yaだけだ。

世界のなかで、自分のGoing to Soba-yaだけが空しく動いている。

人の心とつながり

誰かが目の前にいて、例えば自分と話しているとき、その人の心ははっきりと感じられる。

心の存在と、そのキャラクターを強く感じることができる。

 

しかし、よく観察すると自分の周りで心を持っている(と自分が感じている)人はほんの少数の人だけである。

ぞろぞろと歩く地下歩道の人々は心をもたない。人ごみとか雑踏とかの”ごみ”とか”雑”というのはこの心を持たない状態のことをさすのだろう。

 

人と人は、心を認めなければ繋がらない。

地下通路の雑踏が自分と全く関係なしに、勝手に歩いて行くように、自分が心ありと認めない人は自分とかかわらずに生きていくのである。

そこには摩擦がないから衝突も、軋轢もない。

 

逆につくろうと思えば、強大な繋がりをつくることもできる。

わざわざ人とのいらぬ繋がりを故意に生み出し、過度に強くして、摩擦を生み出そうとするのが人の常である。

ほうっておけばよいのになんの得にもならない悪口をいったり、自分と全く関係のない人との間に架空の繋がりをうみだしたりする。

 

こんなことを書くと世間嫌い人嫌いをわざわざ露呈させているようだが、そういう趣旨ではない。

まあ、だいたいよい繋がりはもちろん、どうでもよい繋がりまで使って、自分の存在とか立場を固めようという人が多いようだから、自立の精神は必要だとは思う。

徘徊の極意

徘徊道においては特に人とのつながりをこばんだり、絶つことはない。

そうというよりはむしろ、行く先行く先でよい関係をもつのである。いわば事をまるく治めておく必要がある。

そうなると時にはやや人を化かすような巧妙な手口が使われることもある。

僕が徘徊の仕方を習っていて一番勉強になるのはそういう老獪な処世術である。

 

出店の餅屋が試食のもちをくれた。

先生はその餅屋と懇意に話しをして、いつまでやっているのか聞く。

大晦日までやっていることをきくと、去り際に、

ではまた大晦日に買いにきましょう。

といって去る。

 

どうやら店をでるときは、またきます、というのが最良の文句のひとつであるらしいのだ。

先生は毎年同じ餅屋でもちを買う。