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きつねの音楽話

老人性古本症候群を患った若者の徘徊ブログ

車が来ないときに赤信号を無視して渡ってよいかという難しい問題

よく渡る交差点がある。

あまり車は通らないが、近くに小学校があるからか信号がついている。

僕は普段からまあなんとなく赤信号をまもるようにしていて、ある日、その日もまた車は通っていなかったが、赤信号を待っていた。

 

そうして待っていると向うから若い男が赤信号を横断してきた。

車は通っていないから、もちろん何事もなかったのだが、それを見た中年の男性がその若い男に対して「モラルがない」といった。

 

僕はどうも気になった。

確かに赤信号を横断することは法律に違反することだろうから、よいことではない。しかし、車が来ていないときに横断したからってモラルがないことになるだろうか?

 信号待ちの哲学

まずこのおじさんは若者が法律を無視したことより、交通ルールというきまりに反したことに憤慨しているのだろう。

もし法律に違反しているということをいっているのであれば、それは全くその通りだから何も言うことはないが、法律に違反するということそれ自体をおじさんが若者に注意するとは考えにくい。

若者が信号無視という法律違反を犯したところでこのおじさんに危害を加える可能性は極めて低い。車は通っていないのだから。

交通ルールをまもるというのが、おじさんのいうモラルなのだ。

あなたならどうしますか?

おじさんがモラルとかいう言葉をどんな意味で使っているかはさておき、こういう場合を考えてみる。

 

あなたの目の前に一本の道が左右に走っている。

目の前の横断歩道を渡って向こうに行きたいが信号は赤だ。(もちろん間もなく信号は青にかわる。)

車は一台も来ない。

渡るか、渡らないか。

 

おそらく渡らないという人のほうが多いと思われるが、この文がこうなればどうだろう。

 

あなたの目の前に一本の道が左右に走っている。

道路を渡って向こう側に急病で助けを求めている人がいる。

いますぐ行かなければ死んでしまいそうだが、信号は赤だ。

車は一台も来ない。

渡るか、渡らないか。

信号をまもらないのは道徳にそむくことか

こうなるととたんに難しくなる。

信号は守らなければならないが、信号がかわるのをまっていれば向うで苦しんでいる人は死んでしまう。

今度は車が一台も来ないのならば、渡って助けるという人が格段に増えると思うが、それだと向うに苦しんでいる人がいれば赤信号は無視してよいことになる。

 

苦しんでいる人を助けるというのは明らかに道徳に則ってのことだから、この場合道徳的な理由があれば信号を無視するのが正しいということになってしまう。

そうすると急に信号をまもらなければならないというきまりが弱くなってしまう。

理由があれば守らなくてよいというのは、赤信号は車が来なければ渡ってもいいというのと同じである。

 

有名なカントの道徳法則では、

もし○○なら、××せよ

という命令を仮言的命令と呼んで、これは道徳としての資格をもたないことになっている。

もし道路の先に急患がいるのなら、赤信号は無視してよい

となれば、明らかに仮言的である。

 

先のおじさんが急患を助けにいくことを選ぶのに、信号無視をした若者に道徳(モラル)について説教するのだとすれば、見当違いだと言わざるを得ない。

信号の意味

そもそも道路に信号がある”本来の”意味を考えると、車が来ていないのならば渡ってもよいのである。

そして道徳というものの本質をみれば、車が来ていないときに赤信号を渡るという行為自体は全く問題ないとみてよい。

日本ではそれが法律違反だからよくないということになるのだが、海外では全く問題ない国もある。

例えば、ドイツ人が赤信号をちゃんと守るのに対して、フランス人は車が来ていなければ平然と渡ってしまうらしい。

つまり、日本人の場合、結局は赤信号のときは横断してはいけないという法律を守るか守らないかということになってくる。

 

では車が全く来ないのにも関わらず赤信号を渡るということが違反になるとすれば、その法律は妥当だろうか?

この場合、もし法律がなかったとすれば倫理的にも道徳的にも全く問題ないのだから、法律(あるいは見方をかえて道路や信号機のシステム)になんらかの故障があると考えられはしないだろうか

 

決して赤信号を渡ることを推進するのではないが、渡っても罰則を受けないのなら、車の全く来ないとき赤信号を渡っても問題ないのではないか・・・?

国法を遵守するか

法律というのはあらゆる場合に正しく作用するというものではない。

この問題もあきらかにそこに原因がある。

しかし、国法を守るということもまたあるいは一国民としての義務になるのかもしれない。

もし法律を守ることが義務、道徳だとすれば、いかなる場合も赤信号を渡ってはいけないのだから、苦しんでいる人がいても助けることが困難になる。

 

最終的には、

赤信号は渡らないというきまりを、いかなる場合も、絶対にまもる

という立場と

なにか適切な、(金銭的なことだけでなく)利益につながる理由があれば、車が来ないときに限って、信号を無視してよい

という立場に分かれるのだと思う。

 

・・・と、ここまで考えたところで、そういえばソクラテスも不当な裁判の判決を受けながら、いかなる場合も国法は守らねばならない「悪法もまた法なり」などといって自ら死を選んだのだったと思い出した。

ソクラテスはクリトンにどう説教したのだったかしらと思って久々に『クリトン』を開いた。

あとがき

こういうことはディレンマ(ヂレンマ、ジレンマ)といって倫理学上の問題としてよくみるものです。

もっとも僕の考えには隙がたくさんあるでしょうから、厳格に考えることはできないかもしれませんが、有名なトロッコ問題(Trolley Problem)を題材にした本もありますから、興味があれば読んで考えてみると面白いです。

 

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「正義」は決められるのか?(Amazon)

 

そういえば数年前この正義を題材にした本がはやりましたね。

これも上の本と同じ問題をとりあげたものです。

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これからの「正義」の話をしよう (Amazon)

 

こういう風に考えてみるとふだん人のいうモラルやマナーというものは全くいい加減で、実は空疎なものだということがわかってきます。

そういうときに問題になっているのはモラルなんかではなくて、実は世間や社会でうまくやっていくルールというのに近いでしょう。

本当に道徳的に生きていたら、あるいは道徳的でないといわれるかもしれませんね。