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きつねの音楽話

老人性古本症候群を患った若者の徘徊ブログ

メールの返事は遅いくらいでいい(梨のつぶて)

 

僕は何をするにもとにかく遅い。所謂のろまである。

 

高校生のときよく遅刻して先生に呼び出されていた。

先生からは、遅刻したら教員室にきなさい、といわれていたから、よく遅い朝のご挨拶にいった。

報告に行くと、先生は何故遅れたのか、ときく。

遅刻というのは普通何か、自転車が壊れたとか、そういう理由があってするものであろうが、僕の遅刻には理由がないことがほとんどだ。

まあだから適当にむにゃむにゃとこたえて、あとは雑談する。

研究室の他の先生方には早々に顔を覚えられて、缶に入ったクッキーをくれたり、いうほどでもないがかわいがってもらった。

僕の遅刻は、というか、遅刻する僕はちょっとしたものだった。

 

というので僕は時間感覚の鈍い人間である。

優秀な人のやりかたならとうに済ましているはずの諸々が、それが手持ち花火の勢いとするなら、線香花火のくすぶるような燃え方で、遅々として、牛歩のごとく進まない。

線香花火といっても最近のものは中国製で、あっというまに落ちてしまうから、蚊取り線香などといったほうがよいかもしれない。 

 

読書などそれがてき面にでてくる。

同じ本を一年以上読んでいたりするのである。

まあこれは同時に何冊も読み進めているからというのもあるが、とにかく読むのが遅い。

読みたい本はまだまだたくさんあるから、この配分だと黄泉の国にリアカーか何かで大量の本を持っていかなければならない。

全然極楽浄土ではない。少なくともカビは生えるであろう。

梨のつぶて

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 僕のバイオリンの先生が数年前結婚して引越して行った。

先日、門下の仲間から、先生が来月旅のついでに会いに来るから予定を教えよ、というe-mailが届いていた。

僕は平時全て決まってから予定が空いていれば行くというので通しているから、特に返事などしなかったのだが、日時も決まって参加者を定めるという時になって、督促のメイルが届く。

日時の知らせではない。督促である。

つまり是非出てこいというのである。

僕がどう返そうか、などと考えているうちに、当の先生からも督促のメイルが届く。

うむ、これは面倒なことになった、とすでにちょっと辟易していたのだが、時同じくして今度は先輩から、今度会いたい、とのメイルが届く。

 

困った。

最初のメイルが届いたときに直ぐ返していれば、こんなことにはならないのであろうが、これが遅刻者の結末である。

返そうかえそうと思えば思うほど、鬱陶しくなってきてどうしようもない。

未だ一通も返していない。

 

手紙

僕には手紙くらいがちょうどいいのである。

僕が手紙を書くようになったいきさつの、細かいことは覚えていないが、だいたいこういうことである。

 

ある日僕は(ドイツ語の)先生と街を徘徊していた。

たまたま訪れたギャラリーの一室でやっていた日本画展で、番をしていた見習いの女性とあれこれ話していたのだが、どういう内容だったか、その女性は僕と先生にいたく感激したらしく、後日わざわざ手紙を送ってきてくれたのである。

僕はちゃんとした手紙などもらったことがなかったから、これを大いに喜んで返信をした。

それから、色々とあって、僕はよく手紙を書くようになった。

 

先生はよく届いた手紙を見せてくれる。

そのうち一番多いのが先生と同級のKimura(ペンネーム)さんのものであるが、この手紙が本当に面白い。

先生は受け取るばかりで返事はほとんど書かないのだが、たまに絵葉書や食物なんかを送る。

 

ある時先生は、ずっと返していなかったKimuraさんへの手紙の返信に、僕の住む街の特産の小粒の梨を包んで、「梨のつぶて」とだけ書いて送った。

しばらくしてKimuraさんから返事がくる。

 

「梨のつぶてはほとんど腐っていました。ジャムにします。」

尋隠者不遇

手紙のやりとりは大いに推奨する僕ではあるけれども、実は今返さなければならない手紙が何通もある。

僕の作文は、誰でもそうであろうが、創作力に揺れがあって、気分が乗らない時はどうも上手く書けない。作文はおそらく高等の能力であろうから、ぼんやりした頭ではダメなわけである。

前日は早々に寝て、朝早起きし、紫だちたる雲の細くたなびくのをみながら散歩をし、昼下がりにちょっとうとうとして、晩飯はほどほどに、あたりが静まってからペンをインクに浸す、くらいじゃないとダメなのである。

まあでも手紙はe-mailとは違うから、返事が遅れても構わないことは構わない。

何カ月も返事が無いと、あれ、何かあったのかなあ、くらいに思うかもしれないが、既読がついたのに返事がないプギャー、とはならないのである。

 

 賈島にこういう詩がある。

 

尋隱者不遇         賈島

松下問童子   言師採藥去

只在此山中   雲深不知處

 

 読み下すとこうである。

松下童子に問ふ 言ふ師は藥を採りて去ると

只此の山中に在らん 雲深くして處を知らず

 

現代では考えられない光景である。

これを現代版にするとこうなるであろう。

(そもそも山に住む隠者がいないかもしれないが)

 

山に隠れ住む隠者を尋ねたが、尋ねた人はいない。

私は怒って帰った。

 

もしくは

 

山に隠れ住む隠者を尋ねたが、尋ねた人はいない。

見れば隠者が使っている童子が、大木の松の下にいるので、先生はどこへと訊いたところ、「薬草をとりに山へ行かれたましたけれど、詳しい場所はわかりません。あ、ちょっと待って下さいね、今電話しますから。え?ああ、大丈夫です。最近この辺も通じるようになったんですよ。」

すぐ戻るというので待ったが、10分経っても隠者は来ない。

私は段々いらいらしてきた。

15分待っても戻らなかったので、帰った。

 

とこんな具合になるであろう。

この間、先生が約束の時間を2時間位すぎてもこず、ようやく会って、具合をきいたら、急に散骨に行くことになって山へ行っていた、と言っていた。先生はお年である。

Langsam aber sicher.

待ち合わせに遅れることはよいこととはいえないし、2時間も遅れるなら一報をいれてもよいと思うのだが、いまよくみられるように高速のやりとりを利とするような風潮もまたどうなのかと思う節もなくはない。

だいいち、あんまり急いでいると、梨の腐ったことに気がつかないかもしれない。

もしそうだとしたら、ちょっともったいない。

それに”牛読”が速読にまさるときもあるかもしれない。

 

どちらにせよ、僕はのろまなりにやろうと思うのである。

当初僕のドイツ語がなかなかはかどらないと話した時、先生は「Langsam aber sicher.ラングザームアーベルズィッヒェル」という言葉を教えてくれた。

”遅し、しかし確実なり”という意味の言葉で、これはドイツ人の好きな言葉らしい。

僕の座右の銘である。

 

とはいうものの、なにもかもをほったらかしにするわけにもいかず、

実は上にでた先輩が、例のTままさんの、娘さんの同僚で、この間Tままさんの娘さんからメイルを返せと督促を受けてしまったからそろそろ返さなければならない。

なかなか抜かりがない。