自立することを考えたら洗濯をすべて手洗いですることになった話
前書
今日のこの記事を書こうと決めて、前の記事を書いてからどういう風に書こうか考えていました。
今から扱う問題はとても繊細かつ難しいもので、僕がAが是といえば、Aが非という人もいるだろうし、僕がAが是といえば、私は(全く別の)Bが是という人もいるだろうということは容易に想像できます。
まあ人生諸般の問題はおよそそういう性質を持っていますから、考えすぎて気に病むこともないのですが、一応読者様々の精神的圧迫にならぬよう断っておくのです。
他人と話していると自分がなにげなく言った一言が、その人の生活に太く長い”針”をずぶと刺してしまっていたことに気がつくときがあります。それが針灸のごとく心身の健康によいものならよいものの、ガンガゼの棘となることもあるということを僕は十分承知していなければならないと思っているのです。
何か啓蒙書の冒頭のようになってしまっていますが、何ら読者様々を啓蒙するつもりはございません。ただ一人間の人生の、一状態を観察するつもりで読んでくれればよいのです。言い換えればこれは笑い話なのです。
僕が洗濯を手洗いでしている話
人の人生を考えているとその人の生まれた場所や両親、その他そういう環境に影響されざるを得ない部分があることがわかってくる。
僕の話、考え方もまたあるいは僕の成長した環境によるのである。
だからこれからする話は僕がある種精神的圧迫を受けた結果起きたことであって、個々人にあまねく適合するわけではないだろう。
僕は一時期酷く自立を迫られたときがあった。
”自立”というのは、”大人”と並んで日本人の大好きな言葉である。
少し前にこの記事で扱った「星の王子さま」でもdes grandes personnes(大人)を子供と対比して鋭く批判しているから人類一般の問題でもあるのかもしれない。
とにかく、人というのは
もう少し大人になりなさい
とか
自立してからものをいいなさい
とかいうのである。
これらの一面として、(もしかすると日本の大人尊)子卑的考えがあると思う。
こどもの考えなどというものは”全く”耳にいれる必要のないものであるという考えがある。
そしてその考えの裏には自分の落度をなくしたいという卑怯さがある。
とにかく僕は大人に圧迫されていた。
なんとか自立しようと思った。
自立ってなんなの?
普通言われる自立というのは経済的自立のことである。
ここのところにも子供には適わない条件を自立に含ませている感があるが、とにかく経済的に自立することが即ち人間として認められる条件であるわけだ。
僕は何かの折にこのこと、(経済的)自立という概念について先生と話したことがあった。
すると先生は、これは作曲家の先生だったが、
「僕はね、こうやってレッスンしたり曲を書いてお金を貰っているけどね、それだけのことでさ。食べ物は農家の人なんかが作ったのを買うだけだし、他のものごとだって、誰かが作ったり、やってくれたりする。それって自立してるっていえるのかって思うけどね。」
というのである。
僕はそれから暫く考えに耽った。
確かに現代において経済的自立は”生存のための”条件ではある。しかしそれだけ満たしたからといって、自立、自ら立つもしくは自らを立すという、考えて見ればひどく哲学的な、この言葉を満たしているかといえば甚だ疑問である。
経済的自立が人間の条件であるのは今生きている現代社会においてである。
人というのは、始めにも書いたが、環境、また社会の中に生きているのだからその時々の社会の仕組みに適応できるかどうかでその人の人生を判断するという考えもありうるだろうけれど、人間とか、人生とかいうことを考えたときに”それだけ”で、ここでいうと経済的自立だけで、善良な人生を送っていると判断するのはかなり危険なことである。
その危険に身を浸してふんぞり返っている大人は、これが結構多いものである。
できるだけのことをできるだけやる自立
僕は考えた結果、自立というんだから、自分のことを自分でやってこそだと思い、できることはやることにした。
この”できること”というのが葛藤の生まれるところではある。
僕には自分の身体を維持するほどの農地が与えられていないし、衣服を作る繊維や裁縫の技術もない。
それでも自分でできるだけのことを自分でやることが自立への道だと考えて、まず家事一般をすべて自分でやることにした。幼いころから母に頼った身の回りのことを、とにかくできるだけ自分でやることにした。
そして、ここに来て今回の問題の”洗濯”である。
僕は当初洗濯物を電動の洗濯機で洗い、干し畳むというのをやっていた。
普通洗濯を自分でするというとこういうものであろう。
しかし、僕はどうも自分でやっている気がしなかった。これでは僕の洗濯の労力の代償に、石炭だか、(当時は)原子力だか、とにかく環境を汚してつくられた電気を使って洗濯機が洗濯してくれているだけであって、何か別のものが犠牲になっている気がする。
これでは”できるだけ”やっていることにならないのではないかと考えて、僕は我が浮浪者先生にそのことを話した。
すると先生は、
「私は洗濯物はすべて手洗いしています。」
と言った。
言われるまで”無かった”、”手洗い”という方法。なぜ”無かった”のか?
とにかく僕はそこで気がついた、そうだ手洗いすればいいんだ。
手洗いの自立
それから僕の手洗い生活が始まった。
手洗いは慣れないうちは時間がかかるし、意外に難しいものだがしばらくやっているとコツがわかる。
洗濯にはタライを使う。
タライの中で洗剤を溶かして、水で軽くすすいだ衣類を浸す。
浸した衣類を足で踏んづけたりしてあらう。
あるいはそのまま暫く漬けておくのものよい。
すすぎは最後の一、二回をのぞいて風呂の残り湯でする。
脱水は実はこれが一番難しいところで、外に干せるときは絞ってもいいが、部屋に干すときはうまくいかないことがあるから、これだけは洗濯機に頼ることが多い。
そのうち上手い方法や道具がみつかればいいのだが・・・
僕が使っている洗剤はこれ
シャボン玉石鹸というと知っている人は知っているものだが、それの洗濯用。
シャボン玉石鹸は石鹸素地のみでできていて、河川に流れても短い期間に微生物の餌になり分解される。
合成界面活性剤やその他諸々の添加物をつかった合成洗剤は僕は全く使わないことにしている。
ただ、普通のシャボン玉石鹸は牛脂から作られていて、牛の命の上に自分の衣類の汚れを落とすのか・・・というのが最近の悩みである。
まあ石鹸のためだけに殺しているのではないだろうが。(ちなみに植物性のものもある。)
シャボン玉石鹸には油脂由来のグリセリンが含まれているので、柔軟剤は必要ない。合成洗剤と比べるとこれが不思議で面白いことだが、洗うだけでふんわり仕上がる。
手洗いのコツ
このシャボン玉石鹸は純石鹸なので使い方にはやや工夫がいる。
まず扱ったことの無い人は水に溶かすだけで苦労するだろう。
コツとしては乾いた容器に石鹸をいれ、シャワーなど勢いのよい水で一気に溶かす。
水の中に入れたり、半端な量の水で溶かすと溶け残りが出来てしまう。
ただコツさえつかめば溶け残りは全く出来ない。
そして使う量も考える必要がある。
多くても少なくてもいけないので、洗濯物の量と汚れ具合によって適当な量を入れる必要があるが、これは経験が必要である。
多すぎるとすすぐのが大変になり、水がたくさんいる。
衣服がひどく汚れているときは洗剤水に入れる前に水で軽く洗うとよい。汗などがおおくついている場合も同様。
襟などの汚れや出先では固形のものを使うとよい。
僕は旅行先なんかでも衣服はすべて手洗いしている。
手洗いと自立
もう衣類をはじめ、寝具やとにかく洗濯をすべて手洗いにしてから数年、正確にはわからないが何年も経つ。
ある人は手洗いする僕に対して”時間の無駄”ということを言ったりする。
まあ洗濯機で洗うのに比べたら確かに時間がかかるかもしれない。
でも実際洗っている時間は手洗いしたほうがよほど短いし汚れもよく落ちる。
それに手洗いしないと分らないこともあるのである。例えば石鹸の性質、どうやればとけやすいか、汚れというのはどういう性質があるか・・・
芸術的なことに感心がある人にとって、生活の何かを”省略する”というのは実は致命的なことである。もし松尾芭蕉が新幹線に乗って奥州めぐりをしたら、奥州新幹線の旅というのは出来たかもしれないが、「奥の細道」は絶対にできなかっただろう。
散歩していると、車に乗っているときには見つけられない地球上の神秘が次々に目に入ってくる。
自立を考えた結果、
手洗いをし、小さな庭で野菜を作って喜ぶ僕は完全にアウトサイダーで、
”大人”から認められないだろう。
僕自身今考えてみると、よくここまで徹底して裏道を歩むものだと感心される。
僕の自立は”できることはできるだけ自分でやる”ことで、それが人生の目標のひとつである。