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きつねの音楽話

老人性古本症候群を患った若者の徘徊ブログ

川端康成のノーベル賞受賞記念演説「美しい日本の私」を読む

前の記事『小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の「怪談 Kwaidan」を読む』で、ハーンの「怪談」のことを書いた。

「怪談」は日本の風土や、日本人の心をよく表したものだが、もっと直接に日本人の心を表したものをつい最近読んだ。

川端康成の「美しい日本の私」である。

 

川端康成の「美しい日本の私」を読む

これは川端康成が1968年にノーベル文学賞を受賞したときの演説である。

僕はこれを講談社現代新書の古い版でもっている。

 

 この演説は道元(1200-1253)の

 

春は花夏ほととぎす秋は月

冬雪さえて冷しかりけり

 

明恵(1173-1232)の

 

雲を出でて我にともなふ冬の月

風や身にしむ雪や冷たき

 

というふたつの歌を題材に話をすすめていくもので、他に良寛西行なども引用し主に歌をみながら日本の心を省みるものである。

 

この本には川端のおそらく草稿からおこした原文とサイデンステッカーの英訳がついている。

※サイデンステッカーはアメリカの日本文学者。川端や谷崎の小説を英訳し海外にひろめた。

英語のほうの題は

JAPAN

THE BEAUTIFUL

AND MYSELF

「美しい日本の私」というのとかなり離れているが、これは始め題として置いていた「日本の美と私」からとられているようにみえる。

”美しい日本の私”というと日本人がみてもちょっと意味の定まらない感じがすると思うが、僕はそこがよいと思うのだが、英語にしにくかったのかもしれない。

先生曰く、眠れる森の美女と同じと。

 

はじめに道元明恵の歌を引用していると書いたが、他にもいくつかの歌が登場する。

それも英訳してあるので比べてみると面白い。

上の道元の歌は

In the spring, cherry blossoms,

in the summer the cuckoo.

In autumn the moon, and in

winter the snow, clear, cold.

 明恵のほうは

Winter moon, coming from the

clouds to keep me company,

Is the wind piercing, the snow cold?

 と訳されている。

ほととぎすがかっこうになってしまっているが、これはしょうがないにしてもちょっと印象がかわるかもしれない。

たしかおととしの夏の夜、はじめてほととぎすの鳴く声をきいたが、あれはかっこう、かっこうとは違う・・・ひとり道を行くときに出会うとちょっと不気味だ。

作家と自殺

文章の中ごろに芥川の自殺のことが書いてある。

川端は随筆「末期(まつご)の眼」のなかで、

いかに現世を厭離するとも、自殺はさとりの姿ではない。いかに徳行高くとも、自殺者は大聖の域に遠い

と書いたが、川端も三島の自殺のあと自殺してしまったことを考えるとちょっと複雑な気持ちになった。

この文章は演説だということもあって全文を通して口語で書かれ、調子も非常にやさしく、これだけみると自殺するなどとは思いもよらない。

 

川端も心を惹かれたと書いているが、僕の目にも留まったのが、芥川の遺書の一部である。

 

「所謂生活力といふ」、「動物力」を「次第に失つてゐるであらう」、

僕の今住んでゐるのは氷のやうに透み渡つた、病的な神経の世界である。(中略)僕がいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。唯自然はかういふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛ししかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の目に映るからである。

 

この前半部分は、このブログを普段読んでくださっている方は気づくかもしれないが、『他人の孤独は目にみえない』で書いたトーマス・マンヘルマン・ヘッセの背負っていた問題とどうやら同じもののように思える。

全く同じかはわからないが、少なくとも似たものであろう。

 

勉強の息抜きは”登山”がいいようだ。』で、学者と登山のことを書いたが、肉体と精神というのはやはり分離されたものではないのだ。

その辺、僕もよくよく気をつけなければならない。

美しい日本

この「美しい日本の私」という題は幾度もいわばパロディ化されている。

たとえば、大江健三郎の「あいまいな日本の私」中島義道の「うるさい日本の私」などである。

両人が果たしてどういうふうに「美しい日本の私」をみたか定かではないが、パロディされるというのは、いくらか馬鹿にした感じがあることは否めないと思う。

またこういう書籍の題名と関わらず、当時から賛否両論あったという。

 

まあ、確かに「美しい日本の私」というのは、現代に生きる日本人からすれば日本をあまりに美化したように思える。

醜いところを無視して都合のよいところだけとったのだろうと思われて仕方がない。

中に書いてあるのも、ひたすら日本の伝統的な美意識についてである。

 

しかし、実際、伝統的な日本の文化と現代日本文化の乖離を誰よりも強く痛感していたのは川端康成本人であったろうと僕は感じる。

中を読むとおのずから感じられた。

「美しい日本の私」は”美しい日本”について書いたもので、他のことは裏に潜んで書かれていないのである。

書かれていないけれど、書かれていないだけで、実はそこにちゃんとあって、存在を訴えている。モーツァルトクラリネット協奏曲のようなものである。

結局、川端はハーンが怪談中の「蓬莱」で書いたのと同じことを全く美しく、そして意識しているにしろしないにしろ、皮肉をもって書いたのだと思う。

 

― Evil winds from the West are blowing over Hôrai; and the magical atmosphere, alas! is shrinking away before them. (中略)

ー the Vision of the Intangible. And the Vision is fading, ーnever again to appear save in pictures and poems and dreams.

※Intangible: 触れられぬ

 

失われたものを盲目に求めるというわけではないが、本当は必要なのに気づかれないまま失われていったものというのもあるだろう。

そういうものを僕達は見つけ出して大切にしなければならない。

あとがき

「美しい日本の私」は現役で幾種か出版されている。

僕が上に紹介した講談社現代新書版も改版して出版されている。

 

 

 調子はやさしく、表現も平易で読みやすいので、機会があれば是非読まれるとよいと思う。